九州鹿児島県の山奥・・・自然がいっぱいの環境でのびのびと育つ。母は京都府舞鶴市出身の家庭科の先生。
可愛い手作りの洋服をよく作ってくれていた。
とにかく歌が音楽が大好き
音楽・特に歌が大好きでいつも童謡を口ずさんでいた。
毎朝 6 時 30 分に家を出て、5 キロの山道を 2 時間かけて小学校に通う。
私にとってその 2 時間は四季折々の木々や草花など、自然に触れられる大好きな大切な時間だった。
小学校 5 年生の時に、熊本県水俣市に転居。
ここにはピアノの先生がいた! 母にせがんで ピアノを習い始める...が、私の考えていた楽しいピアノではなくて、冷たく厳しい先生だった。幸いなことにそれで音楽、ピアノが嫌いになることはなかく、いろんな曲が弾けるようになることは嬉しかった。 中学になってコーラス部に入部。
中学3年生の2学期、父の勤めの関係で宮崎県高千穂町に転居。高千穂高校に進学。
山奥の高校で大学進学する人は少なかった。歌うこと・音楽がとにかく大好きだった私は、
またしてもコーラス部に入部。
勉強は理数系が 好きで薬剤師になりたかったけれど、高校 1 年生の担任の先生の、音楽の方が向いているのではということで、急きょ、音楽の先生を目指すことに。高千穂は九州の山奥で、高校の音楽の先生に受験に必要なピアノ・声楽・ソルフェージュなど全て教
わることに。音楽の先生・片山謙二先生は大学を卒業したばかりの若い先生。とても熱心に音楽のすべてを教えてくださった。
今思うと、片山先生の合唱指導も素晴らしく、担当する高校合唱部を全国大会に連れていいけるカリスマ先生だった。ただし、片山先生最初の赴任高校・高千穂高校だけは...残念ながら...全国大会に行けなかった…。これは今でも語り草になっている。こんな素晴らしい先生に、学問として音楽の最初の入口を教えていただけたことは私に幸せなことだった。
大学時代(長崎市)
その頃は珍しい3年制の活水短期大学(現在は活水女子大学)音楽科声楽専攻に進学。長崎の観光名所オランダ坂を登ったところにある創立120年たつ由緒ある女子大学だった。田舎の高校出身の私は遅れを取っていたので、大学時代の 3 年間努力し、卒業リサイタルでトリ で演奏。とても嬉しかった。
思っていたより辛かった結婚生活のはじめ(茨城県常陸大宮市)
しばらく長崎で働きながら一人暮らしをし、結婚を機に、九州から遠く離れた夫の実家(茨城県常陸大宮町) に転居。夫は船乗りでほとんど留守。優しい両親ではあったが、今のようにメールやラインなど通信手段がないなか、友達も知り合いも全くいないところでの夫の両親と一緒の生活は辛かった。
25 歳の時に長女を出産。見知らぬ土地での子育ては、とても孤独だった。若かった私は初めての子育てで疲れ、自分を追い込んでいった。そんなとき私を救ってくれたのは、“音楽” ピアノを弾くこと、歌うことだった。
スズキ・メソードとの出会い(横浜市)
夫の大学院進学のため、1979年
横浜の公務員住宅に転居。初めての家族水入らずの生活が始まる。そこで、次々に3人の子供に恵まれ四人の子供の母親に。以前、母の友人のピアノの先生から出産祝いにと、鈴木鎮一先生著「愛に生きる」をいただき、その内容の素晴らしさに衝撃を受ける。ぜひスズキ・メソードで育てたいと、4人の子供たちそれぞれバイオリン・チェロ・ピアノを習わせ、私自身もスズキ・メソードでピアノを教えるため、両手に子供の手をひき、おんぶして、スズキ・メソードのピアノ指導者になるべく講習会に通う。
「岡野先生はいつも赤ん坊を背負っているね。」と微笑まれながら、スズキ・メソードのことをたくさん知りたい一心で講習会に通う。
1988年 茨城県守谷市に転居。1990年5人目の子供が生まれる。防音室+グランドピアノを用意し、本格的にスズキ・メソード指導者として活動開始。
Suzuki Voice を知る
1993年、ソウルでスズキ・メソード世界大会が開かれ、1 歳の末娘を連れて参加。 その時に、日本にはないけれど、 フィンランドの Päivi 先生が開発された Suzuki Voice があることを知る。
英語が不得意な私は、どなたかが日本に Suzuki Voice を導入してくださることを待つことにする。
バンコクでの生活
1996 年夫がバンコクに転勤。これまで家族一緒に暮らせることが少なかったので、大学生 2 年・高校生 2 年・ 中学生 3 年・小学生 6 年・幼稚園生の 5 人の子供たちを連れて、一緒にバンコクへ。
お手伝いさん、運転手さん付きの広いマンションで、家族水入らずの優雅な生活だった💞。
「めまい、脱力感などが取れず、副腎腫瘍からきているとわかり、バンコクの病院で副腎腫瘍の摘出手術を受ける」など大変なこともあったが、家族全員にとって有意義なバンコク滞在だった。子供達にとって海外での生活を知ったことはその後の人生に大きな影響を与えた。
日本歌曲・瀬山詠子の先生との出会い
1998 年瀬山詠子東京芸術大学名誉教授ご指導の「詩から入る日本歌曲ゼミナール」があることを知る。
瀬山先生は日本歌曲の世界では造詣が深く、草分け的な存在の重鎮。すぐに受講を申し込む。
芸術・音楽を求める真摯な姿勢も厳しく、 本物を求め続ける先生だった。
瀬山先生は日本歌曲を正しく歌える人が少ないことを憂い、本当に勉強したい人 に分け隔てなく、自分の培ったものを全て伝えていきたいと、このゼミナールを始められたとのこと。
先生のレ ッスンは、本当に厳しかった。どんなに厳しくても歌・芸術に対する本物の先生に出会えた喜びは深かった。何 としてもこの先生についていくと決心。
月に 2 回行われる日本歌曲ゼミナールに通い続け、成果発表会に出演。
美しい日本語、聞き手に歌の心が伝わる日本語の歌、正しい発声法をしていると年齢を重ねて も歌い続けられるから、とご自分の経験を惜しみなくみんなに教えて下さる 88 歳の先生。
実際に今でも舞台で、 深みのある素晴らしい日本歌曲を聞かせて下さっている。大人の生徒さんには、私が教わったいつまでも歌い続 けられる発声法、そして美しい日本語の歌い方を、伝えていきたい。
Suzuki Voice その後
2009 年 60 歳を前に、Suzuki Voice を日本に導入してくれる人を待っていてもだめだと気付き、Suzuki Voice の先生になるための勉強を開始。フィンランドやオーストラリアに一人で出かけ、オーディション&トレーニングを受け、2012 年念願の Suzuki Voice Teacher の資格取得。ピアノと並行して Suzuki Voice を教え始める。
Music Mind Games
ソルフェージュをきれいな教材を使って楽しくゲーム感覚で教える、アメリカのスズキ・メソードのピアノ指導者Michiko 先生考案のMusic Mind Gamesのワークショップを受講。その素晴らしさに心打たれ、 教材を取りそろえレッスンに使っている。日本やデンマークでの Workshop を何度も受講し、Teacher Presenter(Japan) の資格を取得。 現在は音楽関係者の方を対象に 1-day Workshopを開いている。
デンマーク(オールボー)でのMusic Mind Games Lev.2のワークショップに参加
5日間のワークショップを終えて、みんなで記念写真✨
そして現在(川崎市に拠点を移す・守谷にはお教室あり)
子供たち五人は全員独立。長女は、メルボルンで学校の音楽・日本語の先生をする傍ら、スズキ・メソードのピアノ教師として活動。次女、長男、三女、四女とみんな個性豊かな大人に育ってくれて嬉しく思っている。
夫の勤めの関係で、生活の拠点を川崎に移す。
健康で音楽を続けられることに感謝し、音楽で社会に恩返しを・・・と、病院ロビー・緩和ケア病棟や老人施設でのでのボランティアコンサートを続けている。2019年7月、つくばメディカルセンターより緩和ケア病棟での小さな音楽会を50回行ったことで感謝状を受ける。
音楽の好きな世界に通用する生徒さんを育てるスズキ・メソードでのピアノとヴォイスのレッスン、また大人の方のヴォイストレーニングと日本歌曲のレッスンを続けている。
【実績】
スズキ・メソード、ピアノ科指導者として 40 年、
生徒さんを200人以上育てる 生徒は各界で活躍する(お医者さん、学校の先生など、海外留学など)
【資格】中学・高校音楽教諭免許
・スズキ・メソード ピアノ科指導者(才能教育研究会)http://www.suzukimethod.or.jp
・Suzuki Voice Teacher ヨーロッパ スズキ協会認定 http://www.suzukivoice.com/newsgrad
・Music Mind Games Teacher Presenter (https://www.musicmindgames.com)
病院でのボランティアコンサートを20年続けている(横浜市立脳血管医療センター入院病棟にて)